笹井良隆の浪速魚菜話
笹井良隆
「麦藁蛸に祭り鱧」
これは大阪における7月頃から旨くなるもの。7月は大阪における祭り月。1日の愛染祭りから、31日の住吉大社の祭りまで。ほぼ毎日、大阪府下のどこかで祭りが行われいる。その頃から美味くなってくる食材が「蛸と鱧」というわけである。
現代では、この鱧が京都祇園祭の主役となっているが、その歴史は13世紀頃にまで遡るとされている。大阪摂津の今宮村の供御人(くごにん/朝廷、天皇への飲食物を貢納人)が祇園社の神人(奉仕人)になったことに端を発するという見方もあり、こうした人々が大阪湾はもちろん阿波(四国)や紀州などから生魚市場に集められた鱧を京都へ運んだ。京の都へは海水から揚げてほぼ二日。そこまで活きている魚介は、蛸と鱧ぐらいだったであろう。
しかしながら推測するに、蛸が大阪ならびに大和地域に多く用いられたのに比較して京で蛸の需要が強くあったわけではない。これは半夏生の習慣や水稲文化によるものと考えられる。一方、鱧についてもあれほど骨が多く、食することが難しい魚が定着した理由は、大阪で生み出された『骨切り』の技と共に、大阪の料理人と商人が鱧の味と魅力を知らしめてきたからに他ならない。その事実は、平亭銀鶏の「街能噂(まちのうわさ)」に鱧の絵と共に紹介されている(図参照)。
では、大阪においても京と同様に鱧が食されていたのか、といえばそうではない。大阪では同じ7月には天神祭が執り行われるが、その際には鱧ではなく焼きものとしては鯵が多く用いられている。各家庭では鱧は附け焼き、もしくは「鱧皮と毛馬胡瓜のざくざく」として賞味されている。料理屋においてはこの時期の鱧料理のほとんどが酢の物料理の
食材として利用されていることが明治期の「浪華風流料理鑑(なにはふうりゅうりょうりかがみ)」などの献立から窺い知ることができる。江戸時代の廻船問屋であった大江丸が詠んでいるように「鱧たたく 音はとなりか 菊の花」の句は、大阪における鱧の本番が秋であることを今に伝えている。