
笹井良隆の浪速魚菜話

笹井良隆 1956年生まれ。
浪速魚菜の会代表として大阪の食材・食文化の普及に取り組む
数千年前の大阪は河内平野と上町台地が大きな河内湖を抱く地形で、そこに淀川や大和川の土砂が堆積してできた都市である。その河内潟のほぼ中央に位置するのが門真や八尾など現在の河内と呼ばれる処。湖底であっただけに水はけが悪く稲作には適さず時代と共に換金作物も代わっていった。相も変わらず大和川の水害が頻繁に起こったことから300年程前に八尾市の辺りで市内へカーブしていた大和川を奈良から堺へと直線に付け替えた。これによって元は河川であった場所で栽培されたのが綿実であり、そこから河内木綿の産業が起こった。この頃の大阪市内には小さな河川や堀も多く、中でも北区の福島区辺りは菖蒲に杜若や蓮といった水生生物が咲き乱れ一大観光地となっていた。観光地には料理屋がつきものであるように、そこにできたのが冨造と竹の夫婦がはじめた料亭「冨竹」であった。
江戸後期の当時は蓮根専門店ではなかったが、竹の発案で蓮の葉を飯に入れるという蓮飯がヒットし人気メニューであったようだ。

※蓮根専門料亭「冨竹」の蓮根料理十一品の再現
さて、綿実で最盛期を迎えつつあった河内だが、明治維新以後の安価で良質な綿糸の輸入で産業が衰退。これに代わるものとして蓮根栽培が一気に加速した。しかしながら地蓮は天満青物市場では、備中や加賀産とは比するものとはならないことから、本格的な導入が行われた。現在の備中や加賀蓮根は戦後に、関東からの蓮根による品種改良がなされていることから、昔ながら加賀蓮根の良さを今に残しているのが河内蓮根でもあるといえよう。明治~大正そして昭和へと時代が移り、一大観光地であった福島区もその横に北の新地ができ次第に歓楽地として栄えるようになった。昭和に入り戦争が始まると福島区にあった冨竹も戦火で消失。戦後になり三代目が店を再興させ、この時に河内蓮根を使った蓮根専門料亭として新たなスタートを切ったのである。蓮根には他食材にはない、禅味や俳味があることから文人墨客に愛され店は平成期まで続いた。

