笹井良隆の浪速魚菜話
笹井良隆
空(蚕)豆の由来は諸説ある
中でも熊沢三郎氏の「蔬菜園芸各論」などがよく引き合いにだされる。アフリカや地中海から中国大陸へ。日本へは天平年間、聖武天皇の御代なので8世紀頃に行基菩薩より伝えられたとされているが、いずれも定かなものではないが、先の僧が兵庫県の武庫村で試作栽培させたという記述があることから、今でも一寸空豆のルーツは兵庫だとする説が根強くあるのかもしれない。
いずれにせよ各地にご当地の一寸空豆はあるが、そのルーツは「農業全書」に書かれているように、大阪地方において江戸時代から最も多く栽培されてきたもので、さらにその元は古く日本に伝来した「於多福(おたふく)」や「芭蕉成」等を大阪で改良したもの。またそうした空豆(種子)が全国に拡散したのは、明治時代に大阪府の八尾市や柏原市に多く商いしていた空豆問屋の存在があったからに他ならない。こうした豆問屋は昭和にかけてさらに大きく雑穀問屋へと発展してきたことが各地にご当地一寸豆を生む大きな要因ともなっている。ちなみに昭和三十年代に開催された日本種苗研究会における空豆の記載があるので記しておくと「河内一寸空豆 南河内で古く土着した大型晩成空豆の代表品種で、全国の空豆大産地への種子の供給は全て大阪からなされる」。
ちなみにここうした種子はいわば熟成種であり、料理屋で扱われる空豆は枝豆のような未成熟豆である。では、何故に大阪においてそれほどに大きな空豆が求められたのか。そこには料理食材としての大きさの値打ちに対する大阪人の考え感じ方があったからだと某雑穀商人が語っている。また、栽培については一寸豆の種を蒔いたからといって必ずしも一寸の空豆ができるわけではない。空豆をより大きく育てるには、大阪で培われた空豆栽培技法なるものがあることも見落としてはならない。現代では、兵庫の武庫(富松)一寸や愛媛の清水一寸などのブランドもあるが、大阪の河内一寸には、以下のような厳格な規格基準があったことを忘れてはならない。
①大きさが一寸(3.3cm) ひと莢に2~3粒
②全体に丸みをおびている
③豆自体に厚みが感じられる
こうした規格基準を守るためにも空豆専用の篩い(ふるい)など
も使用されている。全国に名を馳せた河内一寸空豆。その大きな
ブランドの裏には信頼を裏切らない仲買業者や生産者そして空豆
料理を供する料理人の目利きなどが一体となった規格基準へのこ
だわりがあったのである。