今月の献立 〈第26回〉 2013年 2月 |
第26回の大阪料理会。3期までは前菜料理とテーマ食材をその月の料理人が個別に担当していたが、今期より一人の会員が合わせて担当。これにより、各店の地域色や個性が明確に表れるようになった。特に前菜料理については、その料理の礎とすべき大阪の歳事や地域ならではの伝承料理への再発見が担当料理人によって行われ、大きな成果を生むところとなった。地域を知ることが自店料理を知ることにも通じるといえよう。 |
菰田昌寛さん 料亭 梅廼家 |
清水隆史さん 大阪あべの 辻調理師専門学校 |
菰田昌寛さんの献立 | 清水隆史さんの献立 | 撮影/藤澤 了 文/笹井良隆 |
【総評】 道明寺粉を使った伝承料理技法や、鮒という使われなくなった食材と郷土料理を基礎にした料理法に対して参加者からは驚きの声が多く聞かれた。運営委員でもある柏屋の松尾氏からは「料理の魅力は旨さだけではなく、こうしたエンターテイメント性も重要な要素。これをお客様に伝えるということを私達はもっと考えていかなければならない」「甘露煮という料理そのものが、お客様側に旨くないといった先入観としてすり込まれている。だからもう作らないというのではなく、そこから新たな魅力を探り出す努力も必要」といった提案が出された。 |
◆大阪料理の道 ―― 抄 ―― その二 〈上野修三相談役〉
難波宮に始まる大阪料理
かつて、短い期間とは言え帝が居(お)わした難波は首都であり、その難波の料理が日本料理であった。もちろん、この時には未だ難波料理などの呼称などない。そうした生活記録は古事記や日本書紀の朝廷の記録にあるのみ。十六代=仁椏V皇は初めて屯倉(みやけ=朝廷直轄の領および農業経営地)を立て、周辺開発、石川の水を引き入れた平野の灌漑事業もスタートした。古墳時代には、大阪和泉の北東部、堺市の泉北丘陵や豊中市の宮山町にも日本最大の製陶器の遺跡郡があった。現在も、中世の泉北丘陵は「陶器荘(とうきのしょう)」「陶器村」といった地名が残されている。さらに日本と朝鮮半島の関係が密接になり、優れた大陸文化と共に調理技術も伝えられて日本料理に大きく影響した。しかしそれは和洋折衷でも模倣でもなかっただろう。陶器荘で焼かれた土鍋・釜・食器。これらを用いた当時代を反映させた、新しい創作日本料理であったに違いない。つまり、仁椏V皇の時代こそが、難波宮にはじまる難波の都市化に向けた料理のはじまりであり、宮中の食における形式の始まり、大阪料理のはじまりであったのかも知れない。